猪木語録 名言集


「坂口とやれば、片手で3分だよ」

1972年1月15日 新日プロ旗揚げ前に

 日プロ(日本プロレス)を追放となり、新日プロの旗揚げを発表した後、
記者との歓談中での言葉だったが、坂 口にも伝わり「自分は3分間とは言わない。
10分あれば反対に猪木さんを潰してみせますと 応じた。
結局、日プロのストップにより、このときの対戦は実現しなかった。
猪木の発言は常に強気である。苦境に立たされらたときにはなおさら強がって見せる。
そのため時として人に対して痛烈な言葉を発することになる。
高田がヒクソンに敗れたときの「一番弱 いやつが出た」もそうである。
後に黄金コンビと呼ばれ、ともに新日を支えた坂口に対しても、こんな発言をしている。

「俺だって生身の人間だ。とにかく最後は、
レスラー・猪木じゃなくて、人間・猪木になってしまった」

1974年6月26日 シンの腕を折った試合後

 史上最高のヒール・レスラーといえば、タイガー・ジェット・シンで異論はないだろう。
猪木 との抗争は実に刺激的だった。
 新宿路上襲撃事件、猪木の左目を焼いた火炎殺法、
そして鉄柱攻撃とアーム・ブリーカーでシンの右腕を折った、この腕折り事件に行き着いた。
 試合後の猪木の発言がこれである。
その後、猪木は「俺の右腕を、どう痛めつけられたか記憶はないが
あの瞬間、腕を折ってやろうという気持ちになった。
本能的なものだと思います。
でも今までのことを考えれば徹底的にやって再起不能にしてしまうところだったが、
レスラーとして使いものにならないのも可哀想だなという気も起きた。
攻撃を止めたのは日本人の弱みだろう 。とにかく後味が悪い」と続けた。

「プロレスが格闘競技の王者であることを見せるために挑戦を受けました」
                 
1976年1月7日 ルスカ戦受諾の記者会見

 アリに対戦を迫る猪木は世界中のマスミから注目を集め、
柔道金メダリストのウイリエム・ル スカが逆に挑戦してきた。
猪木の異種格闘技戦の原点がこの一戦であり、この言葉である。


「極める角度が違う」

1986年2月6日 藤原との試合中

 UWFが新日にUターン参戦し、猪木との対戦を賭けてトーナメントが開催され、
優勝した藤原が猪木に挑んだ。UWFの登場で、にわかに脚光を浴びたのが関節技である。
中でも、それまでまったく注目されなかった技「アキレス腱固め」が一躍クローズアップされた。
猪木と藤原の アキレス腱固め合戦は「元祖」と「本家」の闘いといわれた。
藤原が猪木にアキレス腱固めを決める。しかし、猪木は平然と指さしながら、こう言い放った 。
猪木の関節はルーズジョイントといわれるもので関節技が極まり難い。

「男のケジメで坊主にしました」

1986年5月21日 写真誌にスクープされて

 猪木が突然、坊主頭で登場し、周囲を驚かせたことがあった。
アンドレから腕固めでギブアップを奪ったときもまだ坊主頭だった。
その理由がこれである。写真誌に女性同伴の写真を掲載されたからという理由だった。
マイナス要因をパワーに変えてしまう猪木らしい言動である。

「これも追い風、天の声と思い、決意しました」

1989年6月15日 参議員選挙出馬表明

 突然の参議員選挙出馬表明でファンを驚かせた猪木だったが、
出馬の理由として、猪木独特の この表現を使った。


「そろそろ潮時でしょうね」

1995年1月4日 東京ドームでの試合後

 ファイナル・カウント・ダウンとして行われた格闘技トーナメント。
ジェラルド・ゴルドー戦に辛くも勝利したものの、ゴルドーのローキックに左足を剥離骨折し、
次くスティング戦の入場時には、ドームの長い花道の途中で猪木はうずくまってしまった。
スティングにも辛勝した猪木だったが、試合後は弱気な発言をした。
このときの猪木は気力、体力とも低調で、本当にいよいよかという気にさせられた。

「この道を行けばどうなるものか、危ぶむなかれ。
 危ぶめば道はなし。踏み出せばその一足が道となる。
 迷わず行けよ。行けばわかる」

1998年4月4日 引退の挨拶の中で

 今では名言であるが引退試合後の挨拶で、ファンに対する最後のメッセージとして朗読した。
一休和尚の言葉であり、新日の道場訓にもなっている。
猪木がよく口にする「一歩踏み出す勇気」のもと、猪木の人生感のもととなっている言葉だ。

「元気ですかーっ?! 人は歩みを止め闘いを忘れたときに老いていく
 今こそ格闘ロマンの道を突き進め。小川ぁー!」

1999年10月11日 橋本対小川戦のリングアナとして

 世紀の因縁マッチ橋本対小川戦で、
レフリーを勤める案もあったが「もっと面白いことをやる」と語った猪木が勤めたのはリングアナだった。
暗転後、スポットライトに浮かび上がったのはタキシード姿の猪木。
そしてお馴染みの挨拶の絶叫から型破りの呼び込みを行った。

「道はどんなに険しくとも、笑いながら歩こうぜ」

2000年1月4日 橋本組対vs小川組戦の立会人として

 橋本・飯塚対小川・村上のダブル遺恨マッチの立会人として、
白いトレーニングウエアに身を包み、闘魂棒を持った猪木が登場すると場内のボルテージは一気に上がった。
恒例の「元気ですかーっ」の後、新年のメッセージとしてまたも名言を残してくれた。
試合が一度は混乱のうちにノーコンテストとなった時「俺が立会人だ。
正々堂々とやれ。試合続行」と猪木裁きを見せることも忘れなかった。

「馬鹿になれ とことん馬鹿になれ 恥をかけ とことん恥をかけ
 かいてかいて恥かいて 裸になったら見えてくる 本当の自分が見えてくる
 本当の自分も笑ってた それくらい 馬鹿になれ」

2000年10月4日 猪木詩集の標題作 
      
 出版した初の詩集に収録された一編で、標題作ともなっている。
引退を賭けて小川に敗れた橋本に贈った詩としても話題になった。

「今、俺は人生のホームレスをやっております」

2001年2月18日 新日両国大会にて 
      
 久々に新日マットに登場した姿は、何故かホームレス・スタイル。
そしてこの一言。場内を爆笑の渦に巻き込んだ。
面白コメントがさえわたり「この格好で木戸をくぐろうとしたら入れてくれないので、このバカヤローッ!!」と続く。
そしてなんとマイク・タイソンの招聘決定を電撃発表。


「元気が一番、元気があれば何でもできる」

2001年5月5日 新日福岡ドーム大会にて 
      
 すっかり恒例となった「元気ですかーっ?!」の挨拶に続く言葉。
元気がなくなってしまった世の中に喝を入れるという最近の猪木の理論につながっていく。
4.9大阪ドームでは「元気があればホームレスもできる」という変形バージョンも披露した。

「野球界の大馬鹿者が・・・清原、いたら出て来ーいっ」

2001年11月3日 PRIDE東京ドーム大会のリング上で

 格闘技ファンとして知られ、格闘技の試合をするとも噂されていた
プロ野球読売巨人軍の清原選手が観戦に訪れていた。
挨拶のためリングに現れた猪木が何かアクションを起こすかと期待されたが、
いきなり大馬鹿者扱いでリングに呼び入れた。
そしていきなりのピンタを見舞う
清原選手は頬を押さえながら「めちゃ痛いわ。猪木さん、ありがとうがざいました」と言い残し退場。
野球界の番長も形無しだった。


「俺の心はオープン24時間」

2002年1月4日 新日東京ドーム大会にて

 新日ドーム大会のリングにアルミのゴミ箱を背負って登場。
手書きっぽいリサイクルマーク付きだった。お馴染みの「元気ですかーっ」で始まり
「猪木が歩けば世界が騒ぐ」「人生はまさに闘魂ビジョン、表があれば裏がある」など面白コメントを連発。
「今まさに苦しみの中から立ち上がろうとしている男」として負傷欠場中の藤田を呼び込み、
「ちょうど1年前、ゴミ箱の中に捨てられていた男」としてバンナに勝利した安田を呼び入れ猪木軍ワールドを展開。
最後は「俺の心はオープン24時間」で締めてダーッ!
TシャツにはOPEN24の文字もあった。
心はいつでも開いているからいつでも来いという意味だろうが、
前後のつながりがなかったので何だという感じだったが、
後日放映された「おしゃれ関係」で娘の寛子さんからの手紙の中に
「私の心は24時間開いているよ」というコメントがあり、
そこから取ったものと思われる。

「力があるから、チョーノー力。」

2002年2月1日 新日道立総合体育センター大会にて

 武藤らの退団騒動に揺れた新日本。
何かが起きる雪の札幌に猪木が来場。蝶野が猪木とのリング上公開討論を宣言していた。
そして蝶野が「新日本の神」として猪木を呼び入れ、超異色の猪木劇場が展開された。
蝶野を新日の現場責任者に任命し、永田、中西らもリングに上がり、新日の結束を示した。
リングを降りてからのインタビューで蝶野への期待を改めて表明し、最後は得意の駄洒落で締めた。



前へ戻る

ホームへ戻る

[★高収入が可能!WEBデザインのプロになってみない?! Click Here! 自宅で仕事がしたい人必見! Click Here!]
[ CGIレンタルサービス | 100MBの無料HPスペース | 検索エンジン登録代行サービス ]
[ 初心者でも安心なレンタルサーバー。50MBで250円から。CGI・SSI・PHPが使えます。 ]


FC2 キャッシング 出会い 無料アクセス解析